The center of Korean classical music with an
artistic spirit and clean natural environment
この塔は寧国寺から南に200mぐらいの丘の上にあり、僧侶の舎利や遺骨を祀る塔の一種である。
新羅と高麗で多く造成された八角円堂型の僧塔であり、花崗岩で作られた。
建立年代は,新羅末から高麗初期と見られ、円覚国師の遺骨が寧国寺に祀られたという記録が碑文に残っており、この浮図に円覚国師の舎利が祀られていると推定している。
全体的に端正でこぢんまりした形の僧塔で、非常に優秀な塔であると高く評価されている。
この塔は新羅時代に作られた一般型石塔として、二重基壇の上に石核で3階建てに作られたのが、特徴である。
そもそも古跡であった所を1942年に朱奉祖師がここに移して復元し、大雄殿建物に向い東を眺めている。
この塔を移しとき二重基壇の上の階と1階が変わっていたのを、2003年文化財補修整備事業の際、本来の姿に復元した。新羅時代後期9世紀末頃に建設された作品と推定しており、材料は花崗岩である。
相輪部の他の部材は、一部がなかったり毀損され、寺院内に保管中であり、現存する統一新羅時代後期の塔の中でも優れた作品であると高く評価されている。
この碑石は、高麗の毅宗7年1153年に禅師:毅宗の法理に通じた僧侶になり、明宗1年1171年 王師:王の師匠になった円覚国師の碑である。
円覚国師は、9歳に大禅師:教雄の下に入り僧侶になり、55歳174年に入寂し、遺骨は寧国寺に祀られている。
“朝鮮金石総覧”上巻に、明宗10年1180年韓文俊が碑文を建て、円覚国師碑を建設したという伝聞が紹介されている。
碑身は粘板岩1枚で出来ており、銃弾を浴びて損傷したところが多く、その内容すべてを知ることはできない。
亀の形の碑石の台座と碑首:碑の笠として龍の形が刻んである部分にある4匹の龍はとても特徴があり、碑石の制作年代がはっきりしており、学界の注目を浴びている。
この塔は、寧国寺から東に500mぐらいにある別名、望塔峰という小さな峰の頂上にある花崗岩盤の上に建てられたが、自然岩盤をそのまま利用し、岩石を平らに整え基壇を作った。
塔の胴体は、台を置き、その上に立て、屋根は他の石で作られた。
高麗中期の作品と推定され、この塔の高さは2.43mである。さらにこの塔から北西側に20mぐらいの地点にあるゆるぎ岩は、幅6m、高さ8m、重さ10トン余りで、まるでクジラが泳いで海を跳ねる形をしている。
人が一人で揺らしても動くので、ゆるぎ岩という。
この仏像は、新項里村の入口から3mぐらいの丘から南を眺めており、4角形盤石全面に刻まれた統一新羅時代の三尊石仏立像である。 中央の本尊仏を中心に左右に菩薩立像が配置された三尊形式である。本仏像は、丸い顔をしており、口と唇は輪郭がはっきりして、鼻筋はつんと高い。両耳は、短く首が長い方で三道の姿はない。二重の原型頭光背を持っているが、中には蓮の花模様、外には拡大された連珠の模様が描かれている。
整った肩と重厚な体格など、身体の各部分に昔の形式が現れたこの三尊仏像は、泰安磨崖三尊仏像と瑞山磨崖三尊仏像など、7世紀石仏像様式を継承したもので7世紀後半から8世紀前半の作品として大きく注目を集めている。
村では、この塔は守護神として終戦以前まで洞祭を務めたこともある。
この塔は、典型的な新羅末と高麗初期に流行した単層石塔で、新羅文聖王8年 般若寺の創建当時、846年に建てられたものと推定される。地台石の上に1階基壇を成し、その上に塔の石核を載せており、相輪部には露盤塔の最上階にある四角い屋根の形の装飾と覆鉢露盤の上に鉢を伏せたように作った装飾が付けられている。2階の塔身は,1階に比べ急激に低くなっており、1階の屋根石の台は5段だが、2階と3階は4段になっている。塔は、仏様の舎利が奉られているところで、仏像と同一視される敬拝の対象である。
この木は高さが31m、胸の高さの回りは11mであり、年は1000歳程度と推定される
枝は2mの高さから分かれており、東西方向に25m、南北方向に22mほど広がっている。
西側の枝の一つは、下に向かって育ち、枝の先が土に触れているが、ここで育った新しい木の枝は、高さが5m以上にもなり、胸の高さの直径が20cmを超える。
この銀杏の木は、国に大きな困難があるごとに声を出して泣いたといわれ、秋には、この木と周りの景観が一つに調和し、絶景を成している。
白レンギョウは、モクセイ科ウチワノキ属でレンギョウと同じ科に属し、1属1種である。落葉が散る灌木として高さ1m~1.5mほどあり、葉が対生するのだが、楕円形または卵形で、先はとがっている。 葉の長さは3~6㎝で、幅が2~3㎝でへりに鋸歯はなく、上面は濃い緑色で裏面は浅い緑色である。茎は四角柱であり、葉が出る前に花が咲き、香りが良く、花は普通、白やピンク、アイボリー、青色もある。
この木は、3月下旬から花が咲き始め、4月上旬まで続けて咲くことが特徴であるが、実の形が丸い団扇に似ており、美扇または尾扇の木とも言われるが、ハートの形と似ている。
永同梅川里白レンギョウ自生地は、白川の川辺の低い丘陵地に位置している。この場所の白レンギョウは、叢生していたり、ぽつりぽつり離れて生えており、毀損し復旧したものではなく、自然そのままで保存されている。
世界的に珍しい植物である白レンギョウは、世界で唯一、忠北の永同と鎭川、槐山、全羅北道扶安などに自生しており、天然記念物として指定、保護されている。
この家屋は、忘窩の記録によると朝鮮時代の高宗22年(1885)に建立された建物と推定される。母屋とサランチェ(主人の居間として使う棟)、倉庫で構成されており、20世紀初め、母屋と門屋、クアンチェ(小さい倉庫)が撤去されたという。
母屋は正面6間、側面3間に前後、退間を置いた重ね軒、八作瓦屋根をしている。自然石の階段の上に柱礎を置き、その上に方形の柱を立てた一高柱五樑架である。
H字型のサランチェ(主人の居間として使う棟)は、中央の座敷と居間を中心に、西側には後部屋、台所(上部に屋根裏部屋)、前部屋が位置しており、東側には、小部屋、コンノン部屋、高い板の間がある。高い花崗岩、柱礎の上方形の柱を立てた一高柱五樑架で、母屋よりはるかに装飾的で基本法則により、うまく作られた。倉庫は、壁を伝統方式のビンジノルで作り、屋根は藁葺きで作られた。自然石の基壇の上に柱礎を置き、柱の間にビンジノルを水平に入れており、床は板張りの床、天井は板張りの天井を設置した。この家屋は、朝鮮後期の富農住居の実例を示しており、その資料的価値が高い。家屋の名称は、築造した宋炳筆の号‘少石’により'永同少石古宅'に変更(2007.1.29.)した。
この家は、中の生活空間と外の生活空間とに分けられる。家事の空間は、‘ㄱ’字型の母屋と‘ㄴ’字型のクワンチェ(小さい倉庫)に広く囲まれていて、全体的に見ると、‘ㅁ’字型をなしている。外の家事の空間は、とても変形し、全体的な原型を知る事が難しい。
建築年代は、瓦に‘乙酉3月(1885年)’と‘丙戌3月(1886年)’の二文字が記録されており、19世紀末と推定される。
‘ㄱ’字型の母屋は、南部京畿道以南の土地方法により台所、奥の間、板の間、コンノン部屋、小さいサラン本部屋、居間、座敷の順序に配置されており、サランチェ(主人の居間として使う棟)は、特にはない。
屋根の棟の先を目立つように吊り上げたのは、南部の民家でよく見られる手法である。
特に、コンノン部屋の東側にある便所は、正式に建てられた一間藁葺きの四角い屋根で形がとても美しい建物である。
この家は、17世紀末に建築されたと伝えられているが、母屋と別棟形式の内サランチェだけが残っており、母屋の前にあったというサランチェ(主人の居間として使う棟)が今では建物の基壇だけが残っている。
内サランチェは、建築年代が17世紀末と推測され、現存している玄関脇の建物と物置は、全て20世紀の建物である。
サランチェ(主人の居間として使う棟)は`コ'字型の家で、台所、奥の間、上の部屋、板の間をまっすぐに配列した南道式構成方法で建てられたが、板の間の向こうの角にオンドルを置かずに床を敷いて配膳室として使用したのが特徴である。
内サランチェは台所、奥の間、上の部屋、板の間を順に配列した典型的な別棟形式の小ぢんまりとした建物である。
典型的な士大夫家で、建築の装飾技法がとても優れているが、母屋に比べて外部の空間が全体的にバランスを失っているのが欠点であるが、周辺の自然景観と建物をうまく調和させた手法は、一品である。
この家は母屋、サランチェ(主人の居間として使う棟)、クアンチェ、門家、一角大門、祠堂などが配置されているが、いずれも20世紀初期以降の建物である。ただし、クアンチェは18世紀頃のものと推定され、とても独特な建物である。
クアンチェは正面4間、側面2間の木造藁葺き屋根として右側一間だけ外部に開放し、納屋として使っているだけで、残りの3間は板壁で巻き床を敷いて納屋として使っている。このように広々とした板を大きく縦に差し込む方法は、かなり昔の手法である。特に、家の真ん中に柱を立て、棟木、上桁を直接使った家具法材料をお互いに結合して作った構造物法は、その由来を見つけることができないくらい古い方式である。また、クアンチェの後ろに作られた米櫃は、やはり伝統的技法を持っている。
登録文化財 第47号1939年建立 この施設は、京釜線を運行していた蒸気機関車に水を供給するために設置された給水塔である。現在残っている鉄道給水塔の中で唯一平面が四角形になっており、全体的な立面構成は基壇部、機械室、水槽の3段構成で他の給水塔の構成と似ている。機械室内には、当時、蒸気機関車に水を供給していたポンプがあり、給水塔の外部には給水に必要な水を引き入れた池など給水塔と関連した全ての施設が原型のまま、よく保存されている。
この橋は、京釜線鉄道開通と共に愷勤川の上に築造されたアーチ型双窟橋脚で、韓国戦争当時、多くの住民たちが殺害された'老斤里事件'現場として有名だ。韓国戦争が勃発し、1ヵ月後の1950年7月26日から29日まで4日間、後退していた米軍が永同邑主谷里、林溪里の住民と避難民を窟橋の中に集め、集団虐殺をほしいままにしたが、これまでも銃弾の痕跡(○、△表示)が残っており、当時の状況をあからさまに伝えている。
1905年に開通した京釜線の普通駅としてオープンした深川駅は、輸送量が増え、複線工事とともにその位場所が移り、1934年に現在の駅が新築された。'ㅡ'字型平面の形をしていて、待合室の出入口に切妻屋根を構成し、正面性を強調している。
沿線の待合室の出入口にひさし屋根を共につけ、本体の屋根にくらべ立体感があり日除けの役割をしている。